美しき生命を踊れ-人間と人形

0 はじめに
2月20日、WORLDISTAを手に入れました。

19日からフラゲ組の感想を見ては「私、DoLLs聴けないんじゃ…?」と、まだ歌詞も見てなければ曲も聴いていないのに涙目になっていた私。開封後、歌詞を見て案の定泣いてしまったので「これ聴いたら他聴けなくなりそうだから…」と最後に聴くことを決めました。

そんなこんなで、DoLLsを飛ばしてアルバムを通して聴き、DoLLsの前にシゲの世界で泣いてしまったわけですが。
心を決め、いざDoLLsを再生しました。


開始3秒で一時停止しました。

あまりにも私が好きな音楽すぎて。

ボロボロに泣く気で再生したのに、呆然としてしまうレベルで音楽が好きでした。ジャニーズ楽曲でここまで好きな音楽に出会った記憶がないレベル。え?これ作曲した人、天才なんじゃないの?私の好み分かりすぎてない?作曲した人誰?え?作曲:手越祐也????

冒頭のピアノからおしゃれすぎるし。ベースもたまんないし。ギターはガンガンギュインギュイン鳴ってるし。このアップテンポな楽曲にドラムがさらに疾走感出してるし。そして何より歌声が好き。4分12秒、好きな音しかない。こんな贅沢なことがあっていいんですか?!

そんなこんなで、DoLLsに出会ってからずっとDoLLsしか聴けない病にかかってしまったので、勢いのままに文章を書いていきます。


1 思考を捨てたモノ
doll=人形、人の形をしたモノ。それはある時には呪術的意味を持って取り扱われ、時には愛や祈りを込めて作られ、時にはその美しさから高値で売買されます。

「ドール」「人形」と聞いて最初に思い浮かべる形は人それぞれだと思いますが、私がこの楽曲タイトルを聞いた時に思い浮かべたのは、糸で操られるマリオネットや、美しく無機質な目をしたフランス人形でした。(ピノキオとローゼンメイデンね)

人形と人間で違う点は数限りなくありますが、今回挙げるとするなら「人形には心、意志がなく、自ら思考することをしない」という点でしょうか。
「人間は考える葦である」というフランスの思想家・パスカルのこの言葉を耳にしたことのある人は多いと思います。自然界において、人間は孤独で弱い存在であるが、思考することができるという点にその偉大さがある、ということを述べた言葉ですが、この「思考する」ことこそが人間と人形の違いなのではないでしょうか。

SNSなどが発達し、毎日のように画面に流れる大量の情報や他人の意見を眺める、情報が溢れかえっている現代。流れてくる既出の他人の意見にYES/NOを突きつけているだけであるのに、その行為を自らが考えていると錯覚してしまう人は少なくないと思います。
知らず知らずのうちに自ら思考することを止めてしまった人たち。そうなってしまうと、真偽を考えることも取捨選択をすることもせず、自分にとって都合のいいものだけを拾い上げ、いとも簡単に有象無象の情報によって揺さぶられ、不安を煽られ、動揺させられる。そんな不安定な状態だからこそ、集団に帰属し、安心感を得ようとする。

さて、思考することこそが人間と人形の違いだと先述しましたが、思考することを放棄した場合、人間は人間であると言えるのでしょうか。思考を捨ててしまったら、人形と変わらないのではないかと思います。


2 情報の奴隷
DoLLsの歌詞を見ていきたいと思います。

”信念さえ 行動さえ 右倣え、集団心理”
”色付けて 拡がって 真実はどこにいった?”
”酸いも甘いも 匂い嗅ぎつけ 群がってるだけ”
まさに、思考を捨てたモノたちのことだろうと思います。自ら思考することを止め、周りに流されて合わせてばかり。真偽なんて関係ない、ただ目立つものに群がって引きずりおろしたいだけの、情報の奴隷。

この情報を流しているのは果たして誰なのでしょう。これが一体誰なのか、はっきりとした答えは分かりませんが、誰か・何かを貶めたい悪意を持った何者かであることは確かだと思います。

そんな何者かの”期待通り、思惑通り”に集団で流される“個性なきマリオネット”。
マリオネットは、糸で人間に操られています。思考を捨てたモノたちは、まるでマリオネットのように、何者かの意図で都合のいいように操られるしかないのでしょう。

思考することを止め、有象無象の情報に"流されて 操られ”ているモノたちが溢れかえる世界。まさに"そんなん人の世じゃない”。
そんな世界で殴られて倒されて傷つけられていると、時に自分を見失うことがあると思います。“お前は誰なんだ?”と、“鏡越しの自分へ問”いたくなることが。

思考を放棄することは非常に簡単で楽なことです。ただ、それは自分の意志を捨て、人形に堕ちることと同じだと思うのです。
絶対に譲れない自分の芯・意志をもち、思考し続け、この世界の中で自分を見失わないようにあがく。不特定多数の人形たち*1に立ち向かうために。


3 Role-playing
第1節で、私は「人形には心、意志がなく、自ら思考することをしない」と述べました。前節までは意志、思考を中心に話を進めましたが、本節では心を失ったヒトについて考えたいと思います。

DoLLsの中では、思考を捨てたモノの他に「自分を隠して生きる人」が歌われています。

“世は舞台 人は皆役者”
誰もが本当の自分を見せずに、何らかの役を演じている世界。
虚構に虚構を重ねて、いつしか本当の自分が分からなくなって。仮面を取っても、そこにあるのはまた仮面で。

“嘘に塗れて心失”って、“道義も忘れて”しまった時、きっとその人にはもう心や感情なんて残っていないと思います。
心を失ってしまったら、きっと“愛を愛と気付け”ないし、夢見ることも忘れて“夢は夢で散”って終わってしまう。
人間らしい心や愛を忘れ、夢見ることを止めてしまったヒト。これももう、人間ではなく人形のような存在だと思います。こちらについては、マリオネットというよりは美しく無機質な目をしたフランス人形のイメージでしょうか。

こうならないために、大切なものを守るために牙を剥いて立ち向かっていく。


4 おわりに
2018年8月。味の素スタジアムで流された映像の中で、手越くんは言いました。

手越祐也はもう、自分だけのものではありません。」

あの言葉の捉え方は人それぞれで賛否両論あるのも当然だと思っているのですが、私はあの時、アイドルという偶像を愛しているくせに、ものすごくショックを受けてしまいました。
なんてことを言わせてしまったんだろう、って。手越祐也を生きられるのは手越くんしかいないのに。

他の記事で「アイドルは好きだけれど、アイドルという職業を肯定できない」と書いたことがあるのですが、私は心のどこかで、アイドルをサーカスや人形劇のような美しさと儚さ、残酷さを併せ持ったものだと思っています。そう、人形。
味スタでのあの言葉が、私には「人形として生きること」を受け入れたように聞こえてしまったのだと思います。

あれから約半年、WORLDISTAが発売され、DoLLsという楽曲が発表されました。
この楽曲のサビの最後の歌詞は、手越くんが書いています。手越くんが全てを込めたフレーズ。

“俺は人形なんかじゃない”

このフレーズ以外にも手越くんが伝えたいことが込められているといいます。
俺は人形なんかじゃないと、大切なものを守るために立ち向かっていくこの曲があまりにもかっこよくて。真っ直ぐに戦おうとする姿が本当に大好きで。
今まで何度思ったか分からないですが、この曲を聴いてまた「手越くんのことを好きになってよかった、好きでいてよかった」と、そしてこれからもずっと信じてついて行こうと思いました。




あ~~~~~~~~~~~もう手越くん好き好き大好き(IQ3)

↓そんなDoLLsはこちらのWORLDISTA(通常盤)に収録されています。どうぞ。

WORLDISTA (通常盤)

WORLDISTA (通常盤)

*1:タイトルがDollという単数形でなく、DoLLsと複数形になっているのは不特定多数の人形に堕ちたモノたちに向けた歌だからなのかな、と思ったり。

永久と希望の歌

私の母親は近藤真彦さん以来、SMAP、嵐、NEWS、Sexy Zone…と、今でも現役でオタクをしている。そんな母親のもとに生まれた私は、物心つく前から当たり前のようにSMAP×SMAPを見ていたし、SMAPのメンバーの名前はフルネームで全員言えた。それが1990年代の話だ。

1999年、嵐がデビューした。当時はまだ小学校に上がっていなかったが、母親の車内で嵐の曲が流れていたことは覚えている。小学校に上がり、初めて私がかっこいいと思った芸能人が「ごくせん」の松本潤だった。大好きで毎週見ていたドラマのひとつが、櫻井くんが出ていた「よい子の味方」だった。この頃はまだそこまで芸能人に興味がなかったので、ぼんやりとした記憶でしかないものの、確かに私の生活には気づけば嵐がいた。

2005年、「花より男子」が放送された年。この時私は小学6年生になっていた。この頃になると、周りにもジャニーズ好きな子が多くなっていて、「道明寺と花沢類、どっち派?!」なんて会話がされていた。「ごくせん2」の仁亀論争や「野ブタをプロデュース」の亀P論争も同時期だっただろう。この頃から、年齢もあり今ほどではないものの、嵐のことが好きだったと思う。

中学校に上がった頃には、嵐はどんどん人気になっていた。ふわふわと母親の横で嵐を見ていた私にとって決定的だったのは中学3年生のことだ。最強の大野担と同じクラスになったのだ。彼女は当時大野くんが使っているとされていた香水をティッシュにしみこませて登校していたし、もしコンサートで大野くんが投げたタオルをゲットしたら冷凍保存すると言っていた。(最近会った彼女いわく、あの頃は病気だったらしい)そんな彼女の家に行き、一緒にDVDを見て、たまにジャニショに行き、火曜日には宿題くんの話をしていた。楽しかったなぁ。

この頃の私というのは、嵐で好きな人を聞かれたら「櫻井くんと二宮くん」と答えていた。優柔不断かよ。

中学を卒業し、彼女とは別々の高校に進んだ。中学時代はまだFCに入っていなかった彼女と私がFCに入ったのはこの頃のことだ。FCに入るにあたり、好きな人を1人選ばなければいけないという大問題に直面した私。当時はFC代の半分を母親に出してもらうという話だったのだが、母親から「潤くんか翔くんか大野くんがいいな~」と選択肢を限定されていた。にのあい信者の今の私が聞いたらぶちギレ案件である。そんなこんなで櫻井くんで登録した。嘘はついてない。これについては後述する。

私が初めて行った嵐のコンサートは5×10、1月17日のナゴヤドームだった。土曜日に高校で模試を受けた後にグッズを買いに行ったら目の前でチャームが売り切れたの、今でも忘れないな。

高校時代はSNSもやっていなければスマホでもなかったけれど、ネットを通じてそれなりにオタク生活を楽しんでいたと思う。2010年頃はにのあいに狂ったなぁ。国立ちゅー事件とか、じゃじゃ丸事件とか、Android auの相葉さんの告白とか、スーパーマリオGalaxyとか、供給過多すぎませんでした?最高かよ。ちなみにじゃじゃ丸事件の公演行きました(自慢) その公演でスタンド最前に入ったこと、One Loveで二宮くんのフロートが目の前に止まったことは一生の思い出だと思う。ちなみに翌日熱出した(馬鹿) この辺りから、「“アイドルとして”好きなのは二宮くんなのでは…?」と悩みだすようになる。

2011年、受験の年。この年は日本全体にも暗い雰囲気が漂っていた。嵐が果てない空を歌っているのをよく見た記憶がある。とは言うものの、絶対に行きたい大学、学部が出来た私は勉強に専念しており、あまりTVを見なくなっていた。


さて。今やにのあい信者の二宮担な私だけれど、中高時代に「好きなのは櫻井くんと二宮くん」と言っていたのは本当に嘘ではなくて。今も昔も、私にとって、櫻井くんは道標のような人だ。中学、高校時代にZEROやそれに付随した特集をもれなく見ていたのだけれど、そこでよく昔の大戦や今起きている世界の紛争、歴史について話していた。それを見ていた私は「絶対に大学で世界史をやりたい」と思うようになった。知ることが抑制力になると思ったから。そして、知ったうえで伝えないといけないと思ったから。
受験期は、勉強が嫌いなわけではなかったけれど、プレッシャーや不安で本当につらくて、何度も何度もめげそうになった。その度に、櫻井くんのことを思い出していた。

ずっとずっと勉強詰めの毎日だったけれど、センター試験の直前、1月8日。Beautiful Worldがナゴヤドームで開催された日。自分の中で、最後の模試で点数を取れなかったら行かないと決めていた公演だった。無事に取れたご褒美として、頑張る糧として、この公演に参戦した。最初に歌われた「僕が僕のすべて」を聴いたとき、涙が止まらなかった。本編ラストで歌われた「果てない空」は、その後受験を乗り越える時に何度も何度も私を支えてくれた。アンコール最後の「エナジーソング」で聞いた「一番になって必ず戻るから ここ 名古屋に」というフレーズを胸に、絶対受験を乗り越えてまたここで嵐に会ってやると頑張っていた。普通ならあり得ないと思うけれど、この公演に行くことを許してくれた母親には今でも感謝してもしきれないな。


無事志望校に受かった私は、サークルやバイトなどでなんだかんだ忙しい毎日を送りつつ、オタク生活も楽しんでいた。大学2年生頃にはTwitterでオタク用のアカウントを作って、知り合った人たちとコンサート等で会ったりお休みの日に遊んだりするようになった。今はもう繋がっていない人もいれば、今でも嵐のみならず関係ない共通の趣味で仲良くしている人もいるけれど、嵐がきっかけでできた繋がりがたくさんあった。

大学時代には、気づけばすっかり二宮くん可愛いかっこいいにのあい尊いと言っていて、社会人になった今でも変わらずにのちゃん可愛いにのあい尊いと言っている私だけれど、私は嵐だけを真っ直ぐに追い続けていたわけではなかった。嵐だけを純粋に追いかけている人に、どこか申し訳ないという気持ちはいつもあった。

これは仕方のないことだと重々承知しているけれど、嵐以外の私の好きな人が嵐ファンの人たちに袋叩きにされているのを見たとき、すごく傷ついたし、本気で嵐を好きでいていいのか悩んだ。これ以外でも、嵐を好きでいると、嵐本人たちと関係のないところで傷つけられることがあって、好きでいることを何度も諦めかけた。それでも、私にとっては傷つきながら好きでいることより、好きでいることを諦める方がつらかった。


2018年12月。中学3年生に出会った大野担の彼女と、5×20のナゴヤドームに参戦した。彼女と参戦するのはこの日が初めてだった。彼女と2008年に出会って10年の記念の公演に行ったこと、不思議なめぐり合わせだと感じた。

私が初めて行った嵐のコンサートである5×10と一緒のナゴヤドーム、1曲目の「感謝カンゲキ雨嵐」。どうしても嵐と過ごした年月、思い出を思い出してしまって、オープニングから涙が止まらなかった。二宮くんを見て、「初恋を人間の形に具現化するなら、私の場合は二宮くんみたいになるんだろうな」と思った。好きの形や温度は変われど、間違いなく私はずっと二宮くんのことが好きだった。

5×20の演出で忘れられなかったものが2つある。「果てない空」と「アオゾラペダル」だ。ふせったーに長文で投げたものを引用したい。

~~~~~~~~~~

二宮くんの果てない空でお花が咲く演出について
(2018年12月16日13時47分投稿)
真っ暗で何も見えない中を二宮くんが1人で歩いていくんだけど、二宮くんが歩いた跡に少しずつ草花が芽吹き始めて、色鮮やかな世界を描いていく演出。 その時に歌っているのが果てない空で、それもいつもの歌割りじゃなくて二宮くんのソロパートが多めに振り分けられている。

この歌が主題歌だった「フリーター、家を買う」の印象や、2011年にこの歌がよく歌われていた印象も大きいと思うのだけれど、果てない空って泥だらけで前が見えない真っ暗な中でも、呆れるほど不器用だけど、未来の小さな夢、希望に向かって歩いていこうっていうイメージがある。
その道程には、涙が溢れる日も諦めそうになる日もあると思う。

それでも、歩いていく。

そうしてたどり着いた未来の景色は、草木が芽吹いていて、蝶が飛んでいて、虹がかかっている、明るくて色鮮やかな世界。
最初は真っ暗な中をにのみやくんが1人で歌いながら歩いているのだけれど、少しずつ4人の声が重なってきて、二宮くんの方へ歩いてきて、色鮮やかな草木が広がる頃には4人がにのみやくんの隣にいる。

色鮮やかな夢の世界を見るのは嵐5人一緒じゃなきゃダメなんだと思う。

埋まらない席を布で隠してもらって半ば無理やりツアーを回らせてもらっていたことも、嵐をどうしたらいいかが見えなくて、毎晩毎晩コンサート終わりに遅くまでどうしたらいいか5人で話し合っていたこともあった。
そんな彼らが、今までで無駄なものなんてなかったと言う。

5人で歩いてきた20年、今5人で見ている風景が色鮮やかで輝いていたらいい。

~~~~~~~~~~

櫻井くんのアオゾラペダルの演出について
(2018年12月16日14時08分投稿)
二宮くんは真っ暗な世界に色鮮やかな草花を芽吹かせていったけれど、櫻井くんはモノクロの世界に色をつけていっていた。 果てない空の主人公は20代の社会人って感じなんだけど、アオゾラペダルはもう少し若い、10代半ばから20代前半の学生くらいなイメージがある。

大人は塗り絵を綺麗に塗ろうとする。
「ここはこうだからこの色でなければいけない」と、違う色で塗る者に口を出したり笑ったりする。

果たして正しい色とは何なのか。
自分をよく見せようと必死に取り繕って綺麗な色ばかりを重ねて、かといって周りから浮きたくないから、笑われたくないから必死に周りに合わせて。 でもそんな自分に中身なんてなくて、どこかでつまづいて。

その失敗をなかったことになんて出来ないけど、それでもいいんだって気づけたら。 そうしたら、明日に向かって自分らしい新しい色で世界を描くことが出来る。

櫻井くんや嵐がモノクロの世界に付けた色は、赤、黄、緑、青、紫だった。

嵐らしい、嵐の色で世界を彩っていた。

その世界では、真ん中に5人が寄り添って笑っている。

櫻井くんは「この5人なの?」が「この5人なら」に変わり、もう今は「この5人じゃなきゃ」ダメなのだと言い切った。 それは他のメンバーも一緒なんだろうと思う。

~~~~~~~~~~

これらの演出を中心に、嵐の5人がそれぞれ嵐のメンバーのことを大好きで、「嵐=5人だということ」を痛感するコンサートだったと思う。


2019年1月27日。私は朝から仕事に出ていた。たまたまだろうけれど、午前中に仕事をしている中で、Popcornのカバンを持ったおばさま、スマホの画面が緑の嵐マークだったお姉さんに出会った。声こそかけなかったものの、「嵐ファンってどこにでもいるな、すごいな」と思った。
夕方、現場から戻った時、母親からLINEが来た。

「嵐が活動休止だって」

真っ先に、何か悪いことが起きたのではないかと思った。すぐにTwitterを開いた。悪いことが起きたわけではなかったものの、みんなが困惑していた。まだ仕事中だった私は、ひとまずコメントや動画は帰ってからと決めて職場を出た。
仕事を終えて、バス停でバスを待っていた時、隣に部活終わりの中高生と思わしき3人が座っていた。女の子が2人と、男の子が1人。
最初は気に留めていなかったが、聞き覚えのある声がその子たちの方から聞こえた。潤くんの声だった。3人は、これから私が家で見るであろう動画を見ていた。途中で、男の子が泣きだした。どれだけ多くの人に嵐は愛されているんだろうと思った。


私は「アイドルとは何か?」「好きでいることはどういうことか?」ということをよく考えている。私にとっての「アイドル像」や「好きの形」は年月を経ながら変わっている。
2019年、年が明けた頃から、たまたまではあるがこれらのことについて深く考えていた。

いつからか、私は自担たちに対して「アイドルなんて言葉で縛りつけてごめん」という罪悪感を抱くようになっていた。それこそ中高生の頃は「プロならプライベートを隠してくれ、夢を見せてくれ」などと少なからず思っていた記憶がある。ただ、どこかのタイミングで彼らの不自由さや人間に偶像を背負わせることの重さを感じるようになった。勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになって、勝手に離れていく。「好き」ってなんて自分勝手な感情なんだろうなと、ずっと考えていた。

こう考えている中で、アイドルのファンは、アイドルという人の人生を、彼らも私たちと同じ人間であることを半ば忘れているかのように消費して勝手に幸せになっているんだなと思った。ファンに彼ら・彼女らの自由や人生を奪う権利なんてないと思ったし、こんなに縛られて自由のない「アイドル」という職業を強いるなんて残酷だとまで感じた。私は生まれた頃から当たり前のようにアイドルを見てきたし、アイドルのことは間違いなく好きだけれど、アイドルという職業を肯定できないと思った。

それならせめて、私の好きなアイドルの皆さんには、「好き」「ずっと味方でいる」ということしか伝えたくない。「好き“だから”~」という、自分勝手な好きを理由に、好きのその先にある自分のエゴを押し付けるなんて絶対したくない。
こうした考えに至り、年明けからもやもやとしていた思考が整理されたのが、自分のTwitterから推察するに1月22日のことだった。


皮肉にも、自分の中でこうした考えに至った直後に嵐の活動休止が発表された。私の思考を読み取っていたのかと疑いたくなるくらい、既に気持ちが整理された中での発表だった。号泣する準備はできていたから、涙なんて出てこなかった。「そっか、そうだよね」と、受け止めるしかできなかった。いつも思うことだけれど、こういう時に私は意味が分からないほど冷静で、もっと泣きわめいたりして感情的になれたら私はもう少し生きやすいんだろうな。


今、会見を見ながらこの記事を書いている。彼らはこんな時でも変わらず嵐だな、なんて思いながら。こんな時でも変わらない雰囲気の彼らに救われながら。
以前、二宮くんは「嵐は基本的に多数決だけれど、1人でもやりたくないと言ったときは絶対にやらない」と言っていた。今になって、こういうことだったのかな、と思っている。嵐5人がこだわり続けた「5人で嵐」ということ、“5×○”の、“5”という数字が変わらないことの意味、重さ。1人でも欠けるなら、それは嵐ではないということ。

自分でもわけがわからないほどに気持ちは落ち着いているし、落ち始めるとどこまでも落ち続けるタイプだから明るく振る舞うようにしているけれど、ふとした時に寂しくなって泣いてしまうんだろうなと思う。今もまったく寂しくないと言えば嘘になるけれど。


私の好きな嵐の楽曲のひとつに「PIKA★★NCHI double」がある。2004年、当時まだ20代前半だった嵐が歌っていたこの楽曲に漂う青臭さが今でも好きだ。私は何故か、嵐が未来のことを語る時はいつもこの曲を思い出してしまう。

“いつまでも語り続ける 永久と希望の歌を たとえ今だけと分かっていても”

未来のことを語る嵐は、いつも笑顔だった。永遠なんてないと、嵐もファンも、誰もが心のどこかで分かっていたと思う。それでも、永遠があるのではないかと夢を見てしまう力が嵐には確かにあった。


2020年12月31日を、私がどんな気持ちで迎えるのかは今はまったく分からない。ただ、その時も変わらず私は、二宮くんのことが、嵐のことが好きなんだろう。なんなら、その先もずっと二宮くんのことが好きだと思う。ずっと私にとって初恋のような人だと思う。

私にとって、嵐は人生だと言っても過言ではないと思う。彼らがその日まで自分たちらしく笑って描く景色を、しっかりと心に刻んでいきたい。

優しい歌がいいと作り笑いして言うから

 

こんにちは。

手越くんへのリア恋拗らせ女ことプラトニック大好き芸人です。(ひどい書き出し)

少し前にもTwitterで話したのですが、「この曲を聴くと、この詩を見るとこの人を思い出す」「この曲を聴くとあの時の景色や気持ちを思い出す」ということが多々あります。

もちろん、私の大好きな手越くんについても同様で、私の中で手越くんっぽいな、手越くんを思い出すな、という曲があります。

そんな曲たちをまとめたい気分になったので、以下独断と偏見で選んだそんな楽曲たちについてつらつら書いていこうと思います。(半分くらいステマ)

あくまで私の中の手越くん像を基準に選んでいますので、違うな解釈違いだなと思われる方もいるかもしれません。

あと基本的に拗らせていて重いです。悪しからず。笑

 

1 異端なスター / Official髭男dism

【Official髭男dism】「異端なスター」BOMBER-E LIVE - YouTube

どうも、ドリフェス出の新規です。素敵なグループに出会わせてくれてありがとうNEWS。

ドリフェス後に私の地元のイベントに出演されるということで、そのイベントにもお邪魔してきたのですが、その時にこの曲を聴いてふと、手越くんのことを思い出しました。

2番サビの“愛情求めさまよった天真爛漫なディザスター”というワンフレーズが、寂しがりで愛されたがりの手越くんらしいなと思ったのが最初。

でしたが、聴き込んでいるうちに、1番サビの“『調子にのって出しゃばった火をつけ回る異端なスター』そんな汚名着せられてもいいから どうか 叫んで 歌って”、ラストの“愛をもって「声」と「言葉」で聞かせてよ 怖がらずに どうか 叫んで 歌って”というフレーズの方も引っかかり始めました。

別に私自身は手越くんが「調子に乗って出しゃばってる」とも「火をつけ回ってる」とも思っていないですが、見ないようにしていてもふとした時に悪意を持った言葉というものは目に入ってしまうもので。

事実がどうかなんて関係なく、ただ悪意を投げつけたいだけの人間は、悲しいですが一定数いるのだと思います。目立つ人に汚名を着せたいだけの人間。

そんな外野の声なんてどうだっていいから(よくないけど。むちゃくちゃ腹立つけど。)、ありのままでいいから、私は手越くんの歌が聴きたくて。手越くんの歌が、ステージに立つ姿が好きで好きで仕方なくて。

こんなのただの私のエゴだなんて分かっているけれど、それでもどうか少しでも長くステージの上にいる手越くんが見られたらと願わずにはいられません。

ちなみに私はノーダウト(Official髭男dism - ノーダウト[Official Video] - YouTube)でも手越くんを思い出します。よければ聴いてください。(宣伝)

 

2 くちびるにうたを / 合唱曲

東北地方太平洋沖地震で被災されたすべての皆さんへ(くちびるに歌を) - YouTube

突然の合唱曲(笑)ちなみにこのブログの名前はこの曲から来ています。

この曲は信長貴富さん作曲の「男声合唱とピアノのための組曲くちびるに歌を─Hab’ ein Lied auf den Lippen─』」の中の1つです。(混声版もあるはず)

ドイツとオーストリアの詩人の詩を使って作曲をしているのですが、日本語にすると次のような詩になります。

“嵐が吹こうと 吹雪が吹こうと 地上が争いで満たされようと くちびるに歌をもて 心に太陽をもて 人のためにも言葉をもて”

辛い時こそくちびるに歌を。心に太陽を。私にとってその歌はNEWSの歌であり、太陽は手越くんです。

 

3 Hold your hand / Perfume

[Lyric Video] Perfume 「Hold Your Hand」 - YouTube

これについては何度も何度もツイートしているので、フォロワーさんは耳タコだろうなと思います。笑

サビの“絶対割れないキミのガラスの心を伝う涙色の振動に思わず声が出ちゃうよ”。手越くんでしかなくない?

私が見ている手越くんは、人前では努力しているところも弱いところも見せようとしない、強くあろうとする人です。絶対割れないでいようとする人。

でも、本当は強がりな時もあって、繊細な傷つきやすいガラスの心の持ち主なんだろうなと思います。絶対割れないガラス。

手越くんは人前では泣きたくない人だけれど、そんな手越くんが泣く姿を見るとどうしようもなく胸がきゅっとなってしまうんですよね。

それこそ、“ずっときっと不安でどうしよう”って“今日も眠れな”かったこともあるし。

どうしたって手越くんは強くあろうとするから、せめて大丈夫だよ、ずっと味方だからって伝えられたらなあとこの曲を聞く度に思うわけです。

 

4 Lovin’U / 手越祐也

最後の最後に本人楽曲。笑

これについてはまた別の機会かなと思います。私の中で、話すなら今じゃないと思うので。とりあえず見たことない人は見て。聞いて。

 

とりとめもなく書いてしまいましたが、どれもいいので聞いてください。

最後に言いたいことをまとめると、手越くん大好きです!!!!!!!!

 

"Thunder"私的解釈-アイドルの偶像性

1.はじめに

EPCOTIAのアルバムが発売され、増田さんのソロ曲である“Thunder”を初めて聴いた時、何か引っかかるものを感じました。
そのまま歌詞カードを開き、もう一度聴き直し、歌詞を咀嚼しているうちに、「これはアイドルの歌だ」と気づき、それからは心が痛くなって泣けてしまって仕方がありませんでした。

増田担ではない私が、ここまで自分なりに好きに解釈していいものかと迷いましたが、この歌には向き合わなければいけない気がしたので私なりに文章にしてみることにしました。

が。

EPCOTIAツアーが始まる前に書き始めていた本記事。
ツアーでソロ曲の演出等を見て、解釈が変わる前の状態のものを書きたいと思い、大半は書き終えていました。

ですが、気づけばツアーが始まったどころかたまアリで味スタが発表され、なんやかんやで大晦日

散々迷いつつも、2018年のことは2018年に終わらせておこうということで、2018年3月末に書いたものに少し加筆修正しつつ公開してみました。

ちなみに、大半を書いたのは3月末ですが、読み返してみると「今これを書くと違う解釈をされてしまうのでは?」ということも多々ありました。
修正しようか迷いましたが、そこはそのまま残してあります。

2.「アイドル」という存在

さて、Thunderの解釈に入る前に、「アイドル」という存在について再考しておきたいと思います。
私のThunder解釈はこのお話が前提になっているところがありますので、しばしお付き合いいただけると幸いです。

「アイドル」がどのような存在かと聞かれると、その答えは人それぞれ違うでしょう。
頑張る力をくれる存在、わが子のように愛でる対象、恋愛対象……どれも間違いはないと思います。

「アイドルとは何か」という話になるたびに思い出すのが、嵐の二宮くんが2014年のハワイコンサート*1で使った「神格化」という単語です。
二宮くんの話に則ると、アイドルは「神格化された普通の男の子(女の子)」ということになります。

「アイドル」という単語の由来は多くの人がご存知かと思いますが、英語の"idol"=「偶像、崇拝される人」です。
偶像というと宗教のお話でよく聞く単語ですね。
神様という存在とアイドルという存在は、どこか似ていると私は感じています。

神という存在は、人に信じてもらえないと存在していることにならないという話があります。
いくら神を名乗ったところで、誰にも信じてもらえなければ神にはなり得ない。それは存在していないことと同じです。

私は、アイドルはある意味ではこの世に存在していない存在だと思っています。
人々の願望、羨望、欲望、希望などが混ざり合って創造された虚構。
それはあくまで、人々の「そうであってほしい」という理想像ですから、この世には真の意味では存在していません。
そんな虚構、人々の理想を背負ってステージに上がる存在がアイドルだと考えています。
その人自身が本当はどんな人間かは関係ありません。
人々の「こうあってほしい」をステージの上で魅せる存在だから。

アイドルが「神格化された普通の男の子(女の子)」だとするのであれば、虚構を真実のように魅せること。
これがアイドルがアイドルでいるための条件のように思います。


3.Thunderという楽曲

(1)
この楽曲を最初に聴いたときに、一番に感じたのが「喉を壊してしまうのではないか」でした。
増田さんはもともと喉が弱いタイプですし、試行錯誤して喉を痛めないようにした結果が今の発声、歌い方だと思っているので、その歌い方を崩した上に喉に負担がかかるような発声をしていることに驚かずにはいられませんでした。


(2)
歌詞に目を移していきたいと思います。

"Don't cover your ears…”から始まるこの楽曲では、曲中「聞こえるか?」と何度も問いかけてきます。
以前の増田さんのソロ曲である「LIS’N」*2でも「聴こえてるか?」「LIS'N」と歌っていましたが、あの時とは違い、今回の楽曲ではもっと切々と訴えてくるものがあるように感じます。
声がかき消されるほどの土砂降りの雨の中、必死で「聞いてくれ」と叫んでいるような。

"Live in someone's dream pretending to be someone real?"
「誰かの夢の中で、本物として生きるの?」
ここの詞で、これはアイドルの歌だろうと私は推察しました。理由は第2節を読んでいただいていればすぐお分かりかと思います。
他の方のThunder解釈もいくつか見ましたが、ここの見解は一致しているものが多かったように感じました。

"Hurting under smiles and loosing identity?"
「笑顔の下で傷ついて、自分らしさをなくしていくの?」
「アイドルはいつだってニコニコしていなければいけない」という認識は、アイドルのファンであってもなくてもどこかにあるのではないかと思います。
何かが起きて、どれだけ辛くても、どれだけ悲しくても、どれだけ傷ついても、ステージの上に上がったら笑顔で夢を魅せなければいけない。
それは時に自分を、自分らしさを押し殺すことになるでしょうし、自分らしさがなくなっていくことになるのかもしれません。

このふたつの問いかけに、楽曲ではこう答えています。

"No! My life is MY LIFE!!! 見くびるな 自分で支配するんだ"
ファンを含めた世間の人たちの勝手な理想=誰かの夢を演じて魅せるのではなく、自分は自分として生きる。
ここはある種の宣誓のようにも聞こえます。

「見くびるな」という詞ですが、これはアイドルを批判するアンチだけでなく、ファンにも向けられているのかなと感じました。
ファンという存在は、その対象への愛故に過保護になってしまう時があります。
これは度合いがすぎてしまったり、方向性を間違えてしまうと、ファン本人は「ただ愛を叫んでいるだけだ」と思っていても、その対象を下に見て過小評価していることになってしまうと思うんです。
たとえば、「うちの人は○○できないんだから、周りが気を遣ってよ」というような発言。「○○できないんだから」という時点で完全に見くびっていますよね。
ここのフレーズは、こういう声に対して「勝手に限界を決めないでくれ」と言っているように思いました。

"No...哀れむな いちいちフラついてられないんだ"
こちらのフレーズですが、何か起きた時に、世間の人からアイドルに届くのは批判だけではありません。哀れみの声も届きます。
「メンバーが減ってしまってかわいそうに」だとか、「○○が起きてしまったせいで、巻き添えくらってしまってかわいそうに」だとか。
でも、そこでずっとめそめそ立ち止まっていられない。ふらついている暇はない。前に進まないといけない。

ここの2節についてですが、""でくくられた英語詞も、それに対する答えも、どちらも同一人物=アイドルの言葉だと解釈しました。
つまり、アイドルが自問自答している状態です。

"どしゃ降りの雨に 吹き荒れる風に身をすくめて"
曲中、「雷」だけでなく「雨」や「風」といった天候に関係した単語が何度も出てきます。
こうした単語はすべて何かの暗喩だと思うのですが、この解釈の違いが面白いので皆さん考えてみてください。Thunder解釈大会しましょう。(突然の呼びかけ)
私は「雨」「風」ともに世間一般の人々の声だと解釈しました。アイドルに全く興味のない人々の声が主だと思いますが、場合によってはファンも含まれるように思います。「どしゃ降り」「吹き荒れる」とあるので、どちらかといえば批判的な声です。
世間の非難を受け、身をすくませながら、言いたいことも言えずに押し殺して、泣いて…。

この後の"Am I still your star? Still your charisma? Am I still your hope? Still your hero?"という問いかけ。
最初に歌詞を読みこんだとき、なんて痛々しくて辛いんだろうと思いました。
先述した"No! My life is MY LIFE!!! 見くびるな 自分で支配するんだ"という詞ではアイドルの虚構性に抗っているのに、ここではアイドルの虚構性、偶像性に必死ですがりついている。
"star"「スター」、"charisma"「カリスマ」、"hope"「希望」、"hero"「英雄」という単語の選び方が、なかなか偶像崇拝的だなと感じました。(後半の方がより偶像崇拝的ですが…)
というのも、"charisma"や"hero"には「崇拝の対象となるような存在」というニュアンスが含まれています。
崇拝、信仰の対象となるもの=神。
ここから、"Am I still ~ your hero?"は「まだ神格化されるような存在=理想のアイドルでいられている?」と、繰り返し単語を変えて問いかけていると考えられます。誰に問いかけているかというのは、"your"「あなたの」が指す対象……私は、この場合はファンだろうと考えました。

"吹き荒れる風に"=止まない非難の声に対して、
"on and on and on..."=絶えず、ずっとずっと、
"聞こえるか?"と問い続け、
"I cry, I cry, I cry, I cry..."=泣いて、泣いて、泣き続けて*3
"I try, I try, I try, I try..."=もがいて、もがいて、もがき続けて…

そしてまた問いかけます。
"Still your star? Charisma? Still your hope? Hero?"
「まだ君のスターで、カリスマで、希望で、英雄でいられてる?」

「まだ、アイドルでいられてる?」


(3)
楽曲はここから2番に進みます。
“変わる雲行きにたじろがずに”、ここでは世間の流行り廃りや、人々の興味の移り変わりをさしているのだろうと思います。
追い風が吹くこともあれば、逆風が吹くこともある。

次の“いつか風向き変わり I’ll be nobody”ですが、世間だけでなく、ファンの子の興味もそのアイドルから他のものに移り変わることもあるでしょう。
そうなると、その子にとってそのアイドルは何者でもなくなってしまうのかもしれません。

アイドルを好きでいた頃の思い出を、色鮮やかにキラキラしたまま持っていられるならいいですが、実際は全員がそういうわけではありません。
興味は他のものに移っているのにいつまでもずるずるしがみつきながらアイドルを下げる人、はたまた昔好きだったアイドルを下げる発言をする人。
そんな人たちにとって、アイドルを好きだった頃の記憶は色褪せた“モノトーンに染まる昔話”なのではないかと思います。
そんな発言に対する“let me fade away”、記憶から消えさせてくれなのかな、と。

“この歪んだ声が聞こえるなら”、それはきっと、アイドルとして理想とされる発言から離れた叫びのことなんだと思います。
アイドルとしてではなく、“同じ血が通う”人間としての叫び。
同じ人間なんだから、傷つくことも葛藤することもある。

そして繰り返されるフレーズ。
“Live in someone's dream pretendind to be someone real?”=誰か(ファン)の夢の中で、いかにもその夢が本物だと思わせながら生きるのか?

前述しましたが、私はアイドルのことを虚構を真実のように魅せる存在だと思っています。
人々の理想、夢をいかにも本物のように魅せること。

ただ、その裏には計り知れないほどの葛藤や苦悩があるのだろうと思います。
特に“吐き出したい言葉飲み込んで たまにはトボけたピエロも演じて”。
言いたいことも言えなくて、傷つくことや悲しいことがあっても隠して笑ってみせる。

“Hurting under smiles and loosing identity?”=笑顔の裏で傷ついて、自分らしさを失っていくのか?

“I’m like you, like you, like you, like you...”ここでも同じ人間だと、繰り返し叫んでいる。
皆と同じように“Smile and break”=笑うし傷つく。

そんなことなどお構いなしに、世間の人たちはアイドルに罵詈雑言を投げつけることがあります。
まるで感情などないサンドバッグを相手にしているかのように。
そんな“よこなぐる雨”や“吹き返しの風”に立ち向かって、“声を出し尽くして”叫び続ける。

この後は前半と異なるワードが使われています。
“dream”=夢、“glory”=栄光、“faith”=信仰、“fantasy”=幻想。
前半よりもより実体のないもの。
実体がないが故に、こういった存在でいることは難しい。

ここでまた、“聞こえるか?”という問いが入ります。

“I feel and bleed like you...”=自分だって同じように感情があるし血が流れてる、
“I smile and cry like you...”=自分だって同じように笑うことも泣くこともある、
“I’m just a man like you...”=自分も同じ、ただの人間だ。

その上で問う。
「まだ、あなたの夢で、誇りに思われる信仰の対象で、幻想でいられているか?」

そしてこの歌は、最後にまた“聞こえるか?聞こえるか?”と問いかけ、激しい感情をぶつけるようにして締めくくられます。

“バイアス越しに何が見えるの?”
人は気づかないうちに、偏った見方で物事を認識し、理解していることがあります。はたまた、他人の言葉をそのまま鵜呑みにして、理解した気になっていることもあります。
無意識の偏見越しに、あるいは他人というフィルターを通して、一体何が分かるのか?

“その情報誰が流してるの?”
SNS等が発達し、気づけば探しにいかなくても情報が流れてくる。情報は飽和状態なのかもしれません。
便利な飽和状態に慣れ切ってしまったからこそ、何も考えずに流れてきたものを真実だと思ってしまう。
誰がどんな意図の下で書き、拡散しようとした情報なのか?

アイドルは、アイドルという偏見なしには世間に評価されないものだと思っています。
アイドルというだけで馬鹿にされることもある。
アイドルというだけで悪意を向けられる対象にもなりえる。

“破れる傘で何を凌ぐの?”
世間から浴びせられる批難の声(=雨)を、既に散々傷つけられてボロボロになった傘で防ぐことが出来るのか。

“当たり前のように雨は上がるの?”
この状況も、天気の雨のようにいつかは終わるのか?

4.おわりに

これまでも記述したとおり、私はアイドルのことを夢を魅せてくれる存在だと思っています。
その一方で、人間が偶像として存在し続けることの限界も感じつつあります。
神格化されてしまうアイドルだからこそ、普通の人とかけ離れた存在だと思われてしまう。

それは時に、彼らのことを傷つけることになるのかもしれません。
周囲の人たちに面と向かっては言えないような罵詈雑言を遠く離れた彼らには平気で言えてしまうし、やってはいけないことも平気でしてしまう。
彼らだってただの人間なのに。

夢を魅せてくれている彼らは、私たちと同じ人間だということ。
至極当たり前のことですが、改めて忘れてはいけないことだと思いました。

*1:「ARASHI BLAST in Hawaii」(2015年4月)参照

*2:「QUARTETTO」(2016年3月)、「NEWS LIVE TOUR 2016 QUARTETTO」(2016年12月)参照

*3:余談ですが、"cry"という単語、単に「泣く」と訳してしまいがちですが、「泣き叫ぶ」というニュアンスの「泣く」という単語になります。静かにすすり泣く時には"sob"という別の単語を使用します。この楽曲で"cry"が使われていることにも意味があるのかな、なんて。

Hip Pop Boogie chapterⅡによせて

私が好きなものに対して思うことを文章として残したいと思ったきっかけの1つが、ツイッターでやった「#DMで来たふざけた質問もガチな質問もできる限りTLで答える」というタグでした。
その中の「『Hip Pop Boogie chapterⅡ』で、すきな歌詞はどこですか?」という質問。それに対する答えはもちろん140字には収まらず、答えを画像4枚に分けて添付するという事態に。笑

その時の私の答えを加筆修正しつつ、『Hip Pop Boogie』という曲を中心にアレコレ述べていきたいと思います。

1.『Hip Pop Boogie』について

嵐ファンの人じゃない人も見ていると思うので、ざっくり『Hip Pop Boogie』という歌について。2008年4月に発売された『Dream "A" live』の初回盤に収録されている1曲で、櫻井翔さんのソロ曲です。作詞も櫻井くんがしていて、ほぼ全編ラップ。映像として残っているのはARASHI AROUND ASIA 2008、アラフェス'13(と、後述する宮城ライブ)*1

好きな歌詞として挙げたのが、「ステージ上終身雇用」と「MY LIFE IS MY MESSAGE」。

嵐になる少し前、櫻井くんはジャニーズを辞めようと思っていました。ジュニア時代から有名私立の男子校に通っていましたし、色々なインタビューなどから察するに、様々な且つ相当な葛藤があったのだろうと思っています。それを強く感じたのが、櫻井くんが32歳の時に雑誌で書いた、17歳の自分への手紙。
「1999年。嵐になる直前。(中略)“はぁ…。なんだこれ…。とんでもないことに巻き込まれた。辞めようと思っていたのに。”そう思っていることと思います。イラついて、ピリピリしていると思います。」*2

1999年のデビューこそ華々しかったものの、嵐はなかなか上手くいかない時期も長くありました。
その後、嵐は2005年の花より男子のヒット、2006年初のアジアツアー、2007年初の単独ドーム公演…などと、徐々に一般の人たちからの知名度も上がり、人気も獲得していきました。そうして2008年春から初夏。『Dream "A" live』を引っさげたツアーで初めての5大ドームツアーを行います。9月には、初めての国立霞ヶ丘競技場でのコンサートも行われました。

この時に歌われたのが『Hip Pop Boogie』でした。
辞めようと、とんでもないことに巻き込まれたと思っていた17歳の櫻井くんが、26歳になって「ステージ上終身雇用」と、たくさんのファンの前でキラキラしながら歌っている。どれだけの葛藤があったか、どれだけの壁にぶつかったのかは私にはとても推し量ることはできません。ただ、それでも辞めずに、かつこの先ずっとステージの上で輝き続けてくれるという力強い覚悟のようなものをこのワンフレーズから感じます。
さらに「MY LIFE IS MY MESSAGE」。自分の人生すべてが自分の伝えたいことだと言い切る。めっちゃかっこよくないですか。

この2つのフレーズが、昔も今も大好きです。

2.「Hip Pop Boogie chapterⅡ」について①

まず「Hip Pop Boogie chapterⅡ」が何かといいますと、前項でチラッと言いました、2015年9月の『ARASHI BLAST in Miyagi』で歌われた櫻井くんのソロ曲。2008年の「Hip Pop Boogie」をベースに一部の詞が書き換えられています。今回は、この書き換えられた詞の中から、3つのフレーズを中心に書き進めていきたいと思います。

1つめは、「後追いどもみなまず至らず」。
この歌を聞いたタイミングが、櫻井くん・大野さん・シゲの『ZEROカルチャースピンオフ アイドルの今、コレカラ』*3を見た少し後だったんです。
この番組の終盤でシゲが言った「後輩は嵐の背中を追いかけますよ」に対して、櫻井くんが「全力で逃げ切るよ?(笑)」って言ったんです。
冗談っぽく笑い交じりで話していたのですが、このフレーズを聞いたときに一瞬で思い出したやり取りでした。
この時の櫻井くんの歌声や立ち姿に「ああ、到底この人には敵わない」と感じてしまって、色んな意味でグサッときたフレーズでした。

3.「Hip Pop Boogie chapterⅡ」について②

2つめは、「こんな景色はみんなのおかげ ここまで連れてきてくれるなんて」。
まさか。翔さんが。この詞をあの場で歌うなんて。(衝撃)
櫻井くんがファン想いじゃないなんて思っていないけれど、ここまでストレートな言葉を使うイメージがなかったんです。
戸惑いながらも嬉しいなぁって、「むしろお礼言いたいのは私だから!(泣)」なんて、涙を流しながら聞いていました。

4.「Hip Pop Boogie chapterⅡ」について③

3つめは、「大きな愛抱いたり願いたい未来また描いたり」。
2008年の歌が「あの時」の詞ならば、2015年のchapterⅡは「今」と「これから」についての詞だと思うんです。
2008年は嵐というグループが大きく動き始めたときで、詞も“自分たち”が中心で、どこか見えない先への不安と、5人で突き進んでやるっていう決意が端々に見られるような気がするんですよね。
それに対して、2015年は温かくて愛に溢れてる。“自分たち”から、外へ、“ファンの人たち”へ向けた詞も含まれるようになっていて、2008年に比べて外を見る余裕も出てきたのかな、と勝手に思っています。
それを象徴してるのがこのワンフレーズだと思うんです。だって、2008年のここの詞、「罵り合い大会なんて僕らは見たくないんだい」ですよ(笑)



まだまだ書き足りないことはたくさんあるのですが、すべて書こうとすると収拾つかなくなりそうなので(笑)
あと言いたいこととしては、コンサートの時、後ろのスクリーンでわちゃわちゃしているメンバーを背に、誇らしげに「いままでこれからもこのメンツです」と歌いきる櫻井翔くん、かっこいいの極みすぎる。
私にとって、いつだって櫻井くんは大きくて、ずっとずっと先にいる偉大な人なんです。
これからも、ずっとずっと5人の作る景色を追っていきたいと思います。

*1:2016年4月3日時点

*2:H, 2014年3月号より引用

*3:2015年7月30日0時59分~・日本テレビにて放送