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「またね」に含まれた切なさ-『フラジャイル』第5話

(※ネタバレを含みます)


「安田くんのお芝居が見れる!」と、情報が流れて以降待ちわびていた2月10日。
『フラジャイル』第5話を見ました。

原作を一切見ていなかったので、先の展開がどうなるのかと少し怯えつつ1時間TVを見つめていました。
見終わったときの気もちは、「悲しい」「つらい」「切ない」。もともと語彙力が乏しいこともありますが、言葉が出てこない。ただ、悲しい。

今回のドラマの中で引っかかったのが、タイトルにも含まれている「またね」という言葉。屋上で小早川くん(安田章大)と森井くん(野村周平)が会話をするシーンの、一番最後に交わされた言葉です。

私は、「またね」という言葉は寂しさや切なさの詰まった言葉だと思っています。
普通なら「また会おうね」の意味ですし、再会の約束の前向きな言葉として捉えられるのだと思います。
ただ、その「また」はいつ来るのか?すぐかもしれないし、何年も何十年も先かもしれない。もしかしたら、一生来ないで終わってしまうかもしれない。「また会いたい」「きっとすぐ会える」と思っている人ほど、なかなか会えなかったり、もう会えなくなってしまったり。それはドラマの話ではなく、現実でも十分起こり得ることだと思うのです。

今回のドラマ。生きることを諦めていた小早川くんが、森井くんたちとのやり取りの中で、自分の中に残っていた「死にたくない」という気持ちと向き合い、精一杯生きようと思うようになりました。
その後の屋上のシーン。自転車に乗っていた時に見上げた曇天とは打って変わって、眩しいほどの晴天の下。小早川くんと森井くんが「また会いましょう」という会話を交わしました。
余命は1年と宣告されていた小早川くん。限られていたとはいえ、初めてできた友達の森井くんと「また」話す時間は残っていたはずでした。

しかし、その「また」は来なかった。

生きることを諦めて、ぼんやりと、なんとなく毎日を過ごしていた時ではなくて、前向きに生きようと歩き出した時に小早川くんは亡くなってしまう。
この唐突な幕引き。なんて人生は残酷なんだろう。
「またね」の言葉の脆さを痛感させられました。


さて、小早川くんについて。ドラマの前から「安田くん適役!」との言葉がツイッター上で多く見受けられました。
保育士だったり、音楽を作ったり。最期の子どもを助けるシーンなんかは、安田くん自身もそういう人だよな、なんて。

ドラマを見終わって、ふと思い出した雑誌での安田くんのインタビューがありました。

(ずっと心に残ってる言葉を聞かれて)「『あなたがなにげなく過ごした 今日という一日は 昨日亡くなった方が あれほど欲しがった明日』って言葉なんだけど、ふだんからホントそう思ってる。今日があることは幸せだなって感じてる、いつも。だから、大事に生きなきゃなって。」*1


今を精一杯、悔いなく、全力で生きる。簡単そうで案外難しいことなのかもしれませんが、それでもそんな生き方に近づけるようにしたいなと思わされたドラマでした。

*1:Wink up, 2011年1月号,42頁より引用