「担当」という言葉と「担降り」

1.はじめに

 私がジャニーズに出会ったのは、生まれて間もない頃だっただろうと思う。マッチ以来のジャニオタである母親のもとに生まれた宿命である。特に追いかけようとせずとも生活の中にジャニーズが存在していたのだが、そんな私が最初に自分から追いかけたいと思ったのが嵐だ。「担当」という言葉を知ったのも、嵐を追いかけようと決め、ネットで色々検索するようになったその頃だったように思う。
 私の最初の「担当」は、嵐の櫻井くんだった。嵐で私と知り合った人の中には「え、二宮くんじゃないの?」と思う人ももちろんいるとは思うが、櫻井くんだった。ただ、最初の時点で「櫻井くんだけど二宮くんも好き」というスタンスではあった。
 その後、かけもちは一生しないだろうと思っていたにも関わらずNEWSの手越くんにハートをバチーンと射抜かれすってんころりんしたり、周りから話を聞くうちに気になりだしたエイトに手を出してみたりした。
 こんな中、「『担当』っていったいなんだろう?」と考える機会が増えるようになった。ああでもない、こうでもないと自問自答を繰り返し、その過程で櫻井くんから二宮くんに担降り(正確には担変えというかもしれない)し、エイトからは離れた。
 今日までジャニオタを続けてきた中で、「担当」という言葉について考えたことをここにまとめたいと思う。あくまで今日までであるので、今後また考え方が変わってくるかもしれないことは先にご了承いただきたい。

2.「担当」という言葉-櫻井くんと二宮くん

 ジャニオタ界隈では当たり前のように使われている、この「担当」という言葉。単純に「○○くんのファン」という意味で、共通のはっきりとした辞書的な定義はおそらく存在していないと思う。私は「担当」を、現時点では「アイドルとして追いかけていたい人」と自分の中で定義している。
 この言葉は曖昧で一方的であるが、オタクにとってかなり重いものだと私は考えている。この言葉があるが故に、「担当」という言葉に縛られ、意地でも降りたくないという気持ちがわいてしまうから。少なくとも私はそうであったし、周りを見ていてもそういう人は多かったように思う。
この言葉に縛られていたのは、私の場合櫻井くんのときであった。最初は純粋に好きで、間違いなく担当という存在であったと思う。それがいつからか、「担当」という言葉に当てはまらないような気がするようになった。その理由は2つあった。
 1つめは、“アイドルとして”応援したいわけではない気がしてきたこと。初めは確かにアイドルとして応援したかったし、アイドルとして好きだった。だから担当だと言っていた。ただ、それと同時に、私にとっての櫻井くんは、人間として尊敬できてとてつもない憧れの存在だった。中高時代にZEROを見て、戦争のことをちゃんと知らないといけないと思って大学を選んだし、大学受験や勉強面で頑張らないといけない時の原動力はいつも櫻井くんだった。圧倒的で到底追いつけるはずもなかったけれど、それでも櫻井くんみたいになりたいと思って勉強していた。そうやっているうちに、“アイドルとして”の好きより、尊敬など違う気持ちの方が大きくなっていった。今でも、今の私がいるのは櫻井くんのおかげだと思っているし、圧倒的でかっこいい人だという気持ちは変わっていない。もちろん、櫻井くんのことは大好きである。
 2つめは、二宮くんのことを無視できないくらい好きになったこと。もともと5人の中では櫻井くんと二宮くんが好きだったことは先述したとおりであるが、どこかで好きの度合いが引っくり返ってしまったのだと思う。そのきっかけは特になかったけれど、気づいた時には「コンサートで二宮くんのうちわを持ちたい」と思っていた。し、実際櫻井くんのうちわに隠れて二宮くんのうちわを持っていた。「櫻井担」ではなく「磁石担」というようになっていた。
 このように、ずるずると「櫻井担」という言葉から離れられずに5年くらい過ごしていた。正直、胸の中にずっと突っかかるものがあった。「二宮担になります」とずっと言いたくて仕方なかった。それでも言い出せなかったのは、櫻井くんが最初の担当だったことと、櫻井担として出会った周りの人たちに離れられるのが怖かったことが理由だった。今思えば全然気にすることではなかったように思うが、こんなことで本気で悩み続けるのだから、オタクはつくづく面倒くさい生き物だと思う。辞める気は今のところないが。
 「担当」という言葉に縛られた経験のあるオタクは、おそらく私だけではないと思う。もう既に他の人に気持ちは降りているであろうに、意地でも降りたくなくて「担当」を続けている人を今までに何度も見たことがある。もしくは、もう興味はないのだけれど、昔から好きだからと、謎の義務感と惰性で「担当」を続けている人。加えて、好きなはずの自担や担当グループを非難するようなツイートをする人も見かける。こうした人たちは降りたくても降りられないのだろうと私は解釈している。今だから言えることだが、このタイプの人がもし今この文章を見ているならば、さっさと降りた方がすっきりするので降りることをオススメする。
 ちなみに、私が「もうダメだ、降りよう」と決めたきっかけはNEWSのコンサートに行ったことである。手越くんのうちわを持ちながら、「こういう風に応援したいのは嵐では二宮くんだな」と思ったのである。きっかけはどこに転がっているか分からない。

3.かけもちと担降り

 私はもともとかけもち反対派ではなかったが、自分がかけもちすることは一生ないだろうと思っていた。話せば長くなるので割愛するが、あるきっかけで手越くんにハマり、以来かけもちライフを送っている。
一口にかけもちといってしまいがちであるが、その中にも色々なタイプのかけもちがいるように感じている。

①各グループ1人ずつ自担がおり、すべてほぼ平等に好きであるタイプ
②各グループ1人ずつ自担がいるが、その時々で1番好きな自担が変わるタイプ
③各グループ1人ずつ自担がいるが、圧倒的1位とその他という位置づけのタイプ
④自担は1人であるが、色々なグループをつまみ食いしているタイプ

 などなど、おそらく今思いつかないだけで他のタイプのかけもちもいるだろうと思う。ただ、かけもちと名乗っている人のなかで、それははたしてかけもちと言えるのかと個人的に思うものもある。これは私がエイトから離れた理由であるが、「他のグループを追いかけている片手間で、惰性で追いかけている状態」である。先の節で述べた話と重なるところもあるが、気持ちは他に完全にあるのに、意地でそこにしがみつくのはいかがなものかということだ。この状態は、タレント本人にも他のファンにも失礼だと私は思うし、もう降りたものだと勝手に判断している。(もちろん各々基準は分かれると思います。あくまで私は、という話。)
 どのグループも純粋に好きで、どのグループもちゃんと応援したいと思えるのであれば、担当だと言っていいと思っているし、かけもちだと言えるのだろうと私は考える。

4.おわりに

 長々と書いてきたが、結局私が考える「担当」とは「アイドルとして応援したい人、夢を見せてほしい人」である。この言葉は思っている以上に、普段は意識しないにもかかわらず、オタクにとっては重いものだ。この言葉に縛られて降りられないオタクは少なくないと思う。何度でもいうが、さっさと降りた方がすっきりするのでオススメである。(これでさっさと降りられるのなら絶対今頃悩んでいないとは思うが。)
 ちなみに、私が櫻井くんから降りようか悩んでいた時によくしていたことが、他の人の担降りブログを読むことと、ツイッターで「嵐 担降り」と検索することだった。とにかく、他の人の考えが知りたかった。
 同じようにしてここの記事にたどりついた人がいるかもしれない。完全に私の考えと過去の経験を書き連ねただけであるが、そういった人の役に少しでも立てていたのなら幸いである。